私もか、発達障害。(ADHD)

母:身体障碍者 弟:知的グレーゾーン 父:いまのところ何もなし 私:三十路超えてADHD発覚。二次障害のうつと咀嚼しきれないADHDという言葉に翻弄されながらなんとか生きてる人間のつれづれなるままに。

本日のおはなし:親にどうして欲しかったのか、私の場合。

 さいきん、こちらのブログさんを読みまして。

syakkin-dama.hatenablog.com

 

こちらを読んで、あーうちは発達障害等を抱えた子の家としては理解のある良い家庭だったんだなぁ、と思う反面

そんな理解ある家庭にたいしても、不満がない訳じゃないんだよなぁ……とも思ったので、我が家の場合を書いてみようかと。

 

発達障害を持つ人にとって、家庭の環境っていうのは大事だなぁと常々思います。

親御さんに理解がある、なしがその後にとても影響を及ぼす、と個人的には思っていまして。そういう意味では、我が家は非常に理想的な一家だったようにも思っています。

母親が身体に障害があり、子供の頃苦労はしたもののなんやかんや頑張って普通に暮らしてた(というか、バリバリ普通の卓球部とかでもハンデ無しでやってた)こともあり、理解がある上に自由に楽しく生きさせたいというポジティブシンキングな人でした。

父親は仕事の関係上土日休みではなく、基本的に子供たちには干渉しない親でした。

干渉しないとはいっても、こう(私にとっては)見守ってくれている感じで、ここは大切だという所ではちゃんと「なぜダメなのか」を説明してくれる父でした。

結構なんでも受け入れて楽天的に物事を進める母と、大事な所だけ叱るというより駄目な理由を説明してくれる父。

夫婦喧嘩もそんなに激しいものはなく、(父が甘えたなので)はたから見ても凄く仲睦まじい両親です。

 

そんな両親の元、私はすっくすっくと成長していきました。やりたいと言ったことはやらせてもらえて、自分のやりたいことを大体OKしてくれる母と父。

習い事も沢山しましたし、本当にのびのび育ててくれたと思ってはいます。

 

では、弟に対してはどうだったのか。

小さい頃から知的な遅れが判明しており、早い時点で母親が動いていました。弟は嫌がっていたけれども療育にも通っていたし、幼稚園も普通のとこと特殊なとこ二か所に通っていました。

うちの両親は私と同世代の子の親御さんと比べるとちょっと若いのですが、それこそ今の私の年齢より若い時点でわが子の障害を受け止め、それでもできるだけ普通に、けれど弟が生きやすいようにと、親の会などに入っては情報交換を行い手を尽くして行動してた事を考えると「すげーなー」としか言いようがなかったりします。

母親の手が弟でいっぱいいっぱいになっていたのは事実ですが、その分私のフォローは父親がしてくれていたようです。よって、私は素晴らしく父親っ子に育ちました。

家族旅行とかも沢山行きましたね。母も父も子思いの良い両親だと未だに思っています。

 

また、私のフォロー役が父だったとはいえ、母親が嫌いになったことはなく、むしろ私は「母親をサポートするのだ」「これ以上母に負担がいかないように」と思いながら生きていた気がします。

その頃はやりたいことがはっきりしていたので、それに突き進んでいくことで自分のやりたいこともやらせて貰っていました。母親と二人で旅行とかは無理でしたが、イベントとかでコレ行きたいと言えば大体行かせてもらえてました。一人でしたけど。

 

自分の意識の中でも我が家は平和だったし、良い両親だったし、はたからみても良い家族なんじゃないかなと思いはするのです。

母親の教育方針が「自分で考え自分で進む、伸び伸びそだてる」という感じだったので、干渉もそんなになく、それこそ王道から外れた道をどんどん歩いていったと言っても過言ではないです。そこに夢があったから、自分で選んで進んでいった。母親も父親も止めることはなかった。

 

おまえんちいいなーって言われるような家だったと思いますよ。

親が勉強できないから勉強についてもがみがみ言われなかったし、父親がゲーム好きで休みの日は延々ゲームしているような家だったから、よくあるゲームは一日1時間的な制限もなかったし。色々自由だった。

 

その自由を放任に感じるようになったのは何時だったかな。

 

母親にとって、私は「何にも問題がない子」だったんだと思います。

そりゃあ、母親の理想通りに育っていたわけですしね。一般的な人生とはすでにズレてましたけど(笑)

でも母親は一般的な生き方が良いというより、貧乏でも自分の好きな事をやっていけるほうが良い、幸せだろうという考え方だったと思うので、そのズレすらも母親の想定内というか、理想通りだったのかなと思います。

 

ほんと、何も止められなかった。

 

いいのかな、と思うぐらい。

 

普通、中学生で芝居の道に進みたいから高校行かない! 高校と同等の資格もらえる高等専門学校行く! 勉強嫌いな訳じゃないし、正直普通の高校に行ける頭はあるけど、普通の高校行く意味見いだせないから高専がいい! ……ってなったら、高校ぐらいはちゃんと出なさいってなるような気がするんだけど……とか思いつつ、なんの障害もなく希望の学校に受かりました。というより、受験というもの自体ほとんどなかったのですっ飛ばしたというか。

ちなみに物凄い頭が良いわけではないけれど、そこそこの学力はあったので、通うことになった高等専門学校の入学前の実力テストで英語以外1位だったという……テスト終わった後に「うわー、すげー出来なかった……」とか思ったレベルの出来だったのに……。

 

まあ、今更高校行っとくべきだったとか思ってるわけでもないです。高専時代はそれこそ好きな事や興味ある事を色々やれてとても楽しかったですし、お友達も皆個性的で楽しかったですしね。

 

 まあでも、「私は心配してもらえているのだろうか」という思いは、この辺から顕著に感じるようになった気がします。

自由が、放任、放っておかれているような感覚になって。自分自身で物事を決めて進んでいく事は、親が一緒に考えてくれないからという理由の生きていく上での必須事項になって。

 

歳を考えれば、良いことのような気もします。

自分自身で物事を決めて進んでいくなんてことは、それこそ自立の一歩でもあるような気がしますし。まちがっちゃいない。

ではなぜ「私は心配してもらえない」「ほったらかしにされてる」みたいな感覚を持つようになったのかといえば、結局は弟の存在なんですよね。

 

自分自身の足で歩きなさいと言いながら、母親は弟の体を支えてる。そんな感じ。

私は一切宿題を手伝って貰ったり、自由研究のテーマを一緒に考えて貰ったり、苦手な読書感想文の本選びも自分で決めて、夜中3時ぐらいまで珈琲のんで眠気覚ましながら向かい合ってても手伝っては貰えない。

その反面、弟は全てにおいて母親が手伝っていました。就職の面接すら、母親についてきて貰わないとダメなレベルです。

 

高専卒業してうつ患ってからは気にかけてくれるようにはなりましたが、まあ、ゆっくり休ませて回復を待つというか、なんというか。結局、最後は自分の力でなんとかしなさいな感じ。

助言はしてくれるようになりましたけどね。でも、頑張って通うのは自分、みたいな。

 

それも仕方ないなーって思ってたんですよ。

ADHDって言われるまでは。

 

片付けなさいと言われ、部屋の片づけを試みるもののどうにもできなくて、癇癪起こして逆に部屋をぐちゃぐちゃにしたりしても、自分で散らかしたんだから自分で片付けなさい。

興味の無いものに対しての飽きが早くて、なおかつ時間通りに行くという事がなかなか難しいという結果通えなくなったパソコン教室(私はHTMLとかプログラミングを習いたかったけれど、ワードとエクセルから始まったのでそこで飽きた……)。

免許でも取ったら? ということで免許を取りに行ったものの、まさか自分がいろんな情報を一気に扱うのが苦手だとは思わずマニュアルで取りに行って、路上出てパニックに陥って事故りそうになったとか。(二車線三車線あたりでどこに行けばいいのかわからなくなってパニックに陥った)

 

自分で家で出来る仕事見つけてきて文章書く仕事始めたり、友人の手伝いからなんだかんだで仕事するようになったり、芝居への情熱が戻ってきて殆どお金がかからない形で芝居を見に行った結果その劇団に惚れて勝手にオーディション受けに行って受かっちゃったり、確かに自発的にやれることやってたし、やれること色々あったけど。

 

まさか壊滅的に苦手な事があったとは。

 

苦手なことも、慣れれば出来るようになると考えて苦手意識を減らそうと苦手業務のある所に突き進んでみた結果、結局行けなくなったとか。

 

今から思えば、それは完全な悪手ですよね。

 

診断された瞬間に思ったのは、今まで手助けをして貰い続けてきた弟と扱いが違うことは、発達障害のあるなしがあるからであって、自分で出来る自分は自分で頑張らないといけないと思っていた……のにも関わらず私にもあったの?! という思いと共に、 そう診断されたら『母親を憎んでしまう』という気持ちでしたね。

 

かといって、家族のせいにしたくても……我が家は良い家だったんですよ。それが分かってるから、余計に感情の行き場がなくなり、不満も言えない。

流石に母親には色々ぶつけましたけど、そうすると母が泣くから、お母さんが悪いんじゃないってむしろ慰めに行く結果になったりとか。

 

ほんとに、泣かせたい訳じゃないし、今まで頑張ってきた母を責めたいわけでもなくて。んー……なんていえばいいのかわかんなくなってきたなぁ。

 

ただ一つ言えるのは、弟との扱いをあからさまに分けないで欲しかったな、とは思います。

逆に言えば、その一点だけです。私の場合。

母親の理想の子育て論通りに育てられると判断された私と、育てられないと判断された弟。それだけのことだとは思ってますし、母親的には出来る事なら弟も私と同じように育てたかったんでしょうけれど。

 

子育てってのは難しいもんですね。

こうして、理想通りに育ったと思った私みたいなのが人生に困ってて、弟は案外ちゃんと社会人できてたりするんです。……まあ、のちのちの事を考えたら、やっぱり弟の方が不安はデカいだろうけれど。

 

んー。思う事あって書き始めたけど、結果的には何が言いたいんだかわかんない文章になった気がする!

本日のおはなし:姉の責任はどこまでだろう

祖母が入院したので小旅行してました。

 

うちは父が転勤族だったため、頻繁には祖母の家には行けない家庭でした。今でこそ新幹線で二時間かからないぐらいだけど、まあそれでもそう頻繁には行けない距離ですね。

両親共に出身が同じで、祖母の家も同じ減退県内にあります。祖父はどちらも他界。今回は父方の祖母が入院しました。とんぼ返りの予定だったのですが、せっかくそこまで行くならということで、母方の祖母(むっちゃ元気)の家にも泊まり、従妹の家にも泊まり(結婚済み:旦那さんもメンタルアレ系)、ついでのようライブ見に行ってきました。(ライブ行くのは一番の趣味なのですが、最近はなかなか家から出るのが辛くて行けてなかったので、遠出ついでに見に行って楽しい気持ちを補充して、帰ってからもお外出やすくしよう計画でした)

 

祖母の容態は良くはないけど悪くもない感じでした。心臓近くの血管の問題で本来なら即手術の大病であることは間違いないのですが、意識ははっきりしていて、会話もできます。しゃべると疲れるっぽいけど。

滞在期間を伸ばしたので、祖母のお見舞いは2回行けました。

その、2回目のお話です。

 

祖母はとても心配性で、いつも人の心配ばかりしている人でした。そしてそれを色濃く受け継いだ私と父。弟は比較的母方の祖母よりで、問題はありつつも本人のメンタルはそこそこ良好。

あ、そうだ。つい最近弟の療育手帳取得のための検査が終わりました。結果はまだです。母曰く駄目かもねーとのことでしたが、まあそしたら精神の方でとるしかないですかね。

 今回のお見舞いは急だったので弟は参加できなかったので、今度は弟も一緒にくるよ、あいつもとても元気だよと話していたところ……。

「あのね、とっちゃん(父)がね、まーくん(弟)のことが心配だって言ってたよ」

と、心配そうに話してくれました。

父が祖母に直接話した訳ではなく、おばさんに話してたのを聞いたのだと言ってましたが(そもそもそれがいつの話なのかも不明。大分昔の話かもなあ)まあ、明らかに弟の心配してますよね。

父が生きている間はいいけど、そのあとが心配だという話になりまして、私は躊躇わずに答えました。

「大丈夫だよ、私がいるから。私もお父さんに直接は言わないけど(お父さんが亡くなった後なんて縁起が非常によくないので)なにかあっても私がいるから」

 

内心では自分でもめっちゃ心配ですけどね。

 

まあでも、そこそこの覚悟はしてます。ずっと面倒みるわけにはいかないけども、面倒見てくれるところを探したりはすると思うし。先手をうって母がどこか探すかもだけど、母が元気に生きてるうちは、弟は実家以外で暮らすことを了承しないだろうし……。

まあでもその辺も、自分が大丈夫なら、という話なんですよね。

片親だけでも元気な元気な間はなんとかなる。だけど、病気したりなんだりってことが起こったときには、やっぱり自分がなんとかしないとって気持ちはあるんですよね。

親の介護とか必要になっても、弟をあてには出来ないので自分が踏ん張るしかないだろうし。そのへんはどこの家も同じかもしれないけど。

 

せめて弟が結婚出来ればね。お嫁さんと相談したり出来るかもしれない。

だがしかし、現状結婚のけの字どころか、恋人のこの字もない。ネット関連関連で恋人みたいな相手はもしかしたらいるかもしれないけど、リアルに会ってるかもわからない。人付き合いに積極的ではないので、独り身独り身であることを前提として考えておいたほうが無難に思う。

 

幸か不幸か私も結婚のけの字も恋人のこの字もない人生を歩んでいるので、そこそこ自分の症状と付き合いながら一人で生きていく術を身につけて、親や弟の面倒を見ながら一生を終えるのもありかもしれない……と感じてしまった。

親のため、弟のために生きるなら、それこそ生きる理由もできるしね。

 

でも、それって良いことなのかなあとも思ってしまう。

自分の人世は歩んでないよなあって。

 

とはいえ、自分の歩みたい道が今あるわけでもないけれど。

 

……まあ、これらすべてが今考えるべきことではないのかな、と調子が落ちそうになりながら考える。

考えすぎ、心配性は、祖母譲りです。

 

 

……というのが1ヶ月ぐらい前の話。

これを投稿するか否かで大分迷って、結果今に至る。(笑)

 

その間に弟が療育手帳とれたり、祖母が退院して(まだ家には戻れてないけど)もっかい名古屋言ったりと色々ありまして。

心境の変化も色々あって、

 

やっぱ自分のために頑張って毎日を生きなきゃな

 

というところには戻ってきました。

 

でもまあ、なんかあったときに動くのは結果自分だろうし、弟の面倒見るよってな気持ちも変わりませんけれど、そこそこでいいかなとは思えるようになってきた。

療育手帳とれたのはありがたいね。

なんかあったときにとれる手段が増えるという意味で。弟は使うの嫌がってるけど、今はそれでいいと思う。とれた、というのが大事。

精神と違って更新もないみたいだしさ。

 

思い直しはしたものの、一度は本気で悩んだことではあるので投下しておきます。

きょうだいにとっては一度は皆悩むことだろうし。

 

そんなところで。

本日のおはなし:やりたいことが無くなるとADHDは心が死ぬという個人的考え。2

のちのち統合します(覚えてたら)

眠れなかったので更新。どこまで書きましたっけ。小学校のクラブ活動の話かな。

 

小学生で演劇というものの面白さを知った私ですが、中学校に演劇部が無かったために、合唱部に進みました。小学校高学年で始めたバスケ(背が高かったというだけで誘われ、頑張ったもののそんなに上手くはならなかった)や、吹奏楽とも迷ったのですが、新入部員候補が私一人という状況だったので……他のとこ行くと罪悪感が……。まあ、初日から合唱部の見学行ったぐらいなので、やっぱり合唱好きだったんでしょうけれども。

その後、なんやかんやありまして。中学1年三学期ぐらいに不登校に。

なんやかんやは一言で言えばいじめられっ子だったってことなんですけれども、コレ書き始めると根が深くて大変なので今回は割愛。

クラス変えをして2年生からはまた学校に行けるようになりましたが、最初の頃は行けたり行けなかったりを繰り返しましたねー。

でもまあ大分元気になって来た頃に、個人的な大ニュースが。

 

当時好きだったアイドルが、自分の夢を叶える為に脱退するという……これ書いたら年代ばれるな!!

 

まずはショックを受けました。

しかし、それ以上に感銘を受けました。

そうだ、私には夢があるんだ。あの人が自分の夢を追いかけたように、私も追いかけたい。

 

そして、偶然入手した児童劇団のチラシ。

 

「私ここのオーディション受けたい!」

 

中学生というのは正直入団するには遅い部類だったようなのですが(中学いっぱいで児童劇団の所属から外れるので、同じ系列の高等専修学校(?)に入るなら……といった具合)私はここに入るんだという気合いで突破しました。

学校も行き、部活もやり、劇団も通う。

……劇団に関しては遅刻やおやすみをすることも結構ありましたが、そんなこんなで突き進み、高校も系列の学校に。

多分普通の高校にも入れたんですが、その頃には「私は役者になる」と心が決まっていたので、それ以外の勉強をする意味を見いだせなかったんですよね。

 

高校では芝居に加え、音楽やダンスなども習いました。ここで、私はギターに出会います。(ドラムも楽しかったけど)

うけたい人だけが受ける授業みたいな感じでギターを習い、なかなか上手くならないながらも、音楽が好きという欲求がむくむくしてきていました。

また、芝居の方は学校で発表会みたいなのがあり、自分で台本書いたり音響素材をあつめたり、友達の芝居の音響を引き受けたり色々やってました。

しかし、2年生の時大きな挫折を味わいます。

毎年行われる卒業公演、どうしてもやりたい役がありました。

そもそも、役に選ばれなければ卒業公演の練習中に芝居の練習を行うことは出来ず、(ミュージカルだったので)ダンスの練習だけを行うことが決定しており、私はどうしてもその役に選ばれたかった。一番のネックはダンスだったけれど、懸命に覚えました。生来の真面目さで一生懸命課題に取り組んだつもりでした。

 

でも、選ばれたのは真面目に授業を受けていない別の子でした。

 

上手くなりたいという気持ちも、やる気も自分の方が上なのに、何故……と落ち込みました。その子が練習めんどくさがっているのが、さらに嫌でした。やる気がある子が選ばれたなら納得がいったと思います。

ここで学校に不信感を抱きます。

この学校では、努力をしても見て貰えない。

 

2年の終りに、演劇学科のある大学の入試に挑戦すると心が決まりました。

 

……さて。

この時、実は少し迷いが出てきていたんですよね。

音楽が楽しい。でも芝居も好き。……果たして本当に好きなのはどちらなのか。

芝居一本できていたら、大学なんていう高望みしなかったと思います。けれど、揺れてしまった。本当にお芝居が好きなのか、分からなくなってきていました。

 

猛勉強はしましたが、元々勉強に力の入ってなかった学校に2年も通っていたので、当然のように大学は落ち、フリーターをしながら専門学校を探すという進路が確定しました。

フリーターをしながらバンドを組んでみようと画策しました。

失敗しました。

専門学校を見に行きました。

芝居一本で突き進む覚悟が持てませんでした。

 

夢を一旦、諦めました。

パソコンを習い始めました。我流で使っていたワードとエクセルを習っている間に飽きがきて、自分が本来習いたかったホームページ作成やプログラミング的なところまで行かずに行けなくなりました。

 

その頃、私は新しい「表現」の場を見つけだしていました。

それは、文章を書くこと、でした。

作文が大の苦手だった私は、今まで文章を書くということをまったくしてこなかったのですが、それが良かったみたいです。

パソコンという文明の利器を使って、物語を書き、友達に送り付けたり、ホームページを作成して載せたりしていました。

二次創作の同人誌でしたが、本も作成しました。

 

それと大体時期を同じくして、芝居をやりたいという熱が再度湧き上がってきました。

小劇団の芝居を見に行ったりして、凄く気に入った所の新入団員オーディションに飛び込みました。興味を持ってもらえ、役をもらえることになりました。

沢山練習をして、舞台に立ちました。

他の団員さんと比べたらへたくそだったけど、お金を取って芝居をするということを体験しました。

 

そして当時、恋人が出来ました。

……遠距離の上、同性という非常にいびつな恋人関係でしたが、初めて「自分の事を一番に考えてくれる人」と出会えた気がして、凄く嬉しかった。

ですが、彼女が自分と同じ地域で就活を始めると聞いたときに、本当にこれでいいのかと心から悩み、彼女の一生を背負うことはできないと考えて、別れました。

 

そこで、大きな喪失感を感じ「ああ、もう私やりたいことやり切った。からっぽだ」となり、なら死んでもいいかなと手元にあった薬を全部飲むといういわゆるODに走りました。

 

まあ、ODぐらいで死ぬことはなく。

 

その後はうつうつとしながらも、やりたいことを探しました。

とあるWEBサービスで文章を書いてお小遣い程度のお金をもらえるようになりました。

私には文章が残ってる。そう感じました。

しかし、当時勤めていた仕事がしんどくなって、引きずられるようにWEBサービスの方も出来なくなりました。

 

その後、原点に帰ろうと好きなものの近くで働くことを考えました。

実家近くのCD屋で働くことになり、色々あったものの、社員さんと同等の仕事を任せられるようになりました。

この仕事は長く続いたものの、最終的には人間関係的なもので調子を悪くしてやめることになりました。

 

けれど、音楽のそばで働きたいという気持ちはその時はっきりと自覚をしました。

 

その後、もっと音楽に近い場所でと考えライブハウスで働こうと画策するも、すでに年齢も良い年齢になっていたので、応募できる所すら少ない状況。

色んな方面からライブハウスで働く方法を考えたものの、ある道では無理と言われ、ある道でやるには時間とお金がかかりすぎ、とりあえず都内に住んでダブルワークと考えたものの発想が突飛すぎて空回りし。

 

今は、その夢も無理だと感じています。

 

いろんなことをやってきました。中途半端にではありますが、いろんなことをやってきました。

やりたいことはやりつくしてるんじゃないかと考えるようになりました。

 

やりたいことが、なくなりました。

 

そこに、ADHDの診断が加わりました。衝動的に動いていたということを知りました。

やりたいことに向かって、とりあえずぶつかりに行く、ということが出来なくなりました。

 

それが、現状うつうつとした状態から抜け出せない原因の一つになっている気がします。

心が死んでる感じなんですよね。

やりたいこと大体やったし、もうなんにも残ってない。そんな感じ。

 

思えば、元気な時はではありますが、エネルギーに満ち溢れた人間でした。もともとは。

 

やりたいこと、見つかればいいなぁと思いつつ。

心が活動を停止したまま、生きています。

からっぽだなぁ、なんて思いながら。

本日のおはなし:やりたいことが無くなるとADHDは心が死ぬという個人的考え。

現状です。

 

現状というより、タイトルの状態なのでここまで色々こじれたのではないかと個人的に考えています。

実際のところ、診断を受けたタイミングと「やりたいことが無くなった」タイミングが綺麗に重なってしまった為に、底なし沼のような穴の中でぼんやり上を見てる感じ。

やりたいことが無くなったというのは、実は正確ではなくて。

今やれるやりたいことはやりつくした。後はやりたいけどやれそうにないことばかり、というのが正しいのかな。

 

小さいころの私の夢は、アイドルになることでした。

歌うことが好きで、音楽を聴くことが好きで、テレビの中のきらきらした中で歌う人に憧れて憧れて、いつかは私もそうなるのだと思っておりました。

小さいながらに考えました。

「どうしたらアイドルになれるんだろう」

考えた結果、エレクトーンを習うことにしました。

(なぜピアノじゃなかったのかはわからない。近くのヤマハでピアノはやってなかったのかな……)

エレクトーンを習うのに、家には古いオルガンしかなくて、キーボードが二段のエレクトーンとは感覚が全然違うのが嫌で練習をほとんどしなくて、母親に練習しなさいと言われて嫌々練習していました。

のちのち、エレクトーンを買って貰えたのですが、その頃にはエレクトーンを習うこと自体に冷めてしまっていたのでやっぱり練習しませんでした……。

ただ、幼稚園時代はヤマハの学校に行くのは凄い楽しくて。

音楽に触れているということもそうなのですが、授業の一環で歌うやつ(よくCMで見るどーみーそーのやつ)がとにかく楽しくて、それをしに行ってたようなもんでした。

父親の転勤の関係で幼稚園卒業間際に引っ越しすることになり、引っ越し先でもヤマハに通ったんですけど、そこでは歌うやつがなかったのでやる気がどーんと無くなってしまったんですよね。それでも惰性で続けてましたけど、今はもう弾けません。(右手だけならなんとか)

 

引っ越した先、今住んでる地方なのですが、そこで小学校に入学して、そこでも考えました。

「どうしたらアイドルになれるんだろう」

考えた結果、児童合唱団に入ることにしました。

これは楽しかった。ただし、上手くはなかったけど。このあたりから、私はあんまり歌が上手くないという事実に気が付き始める……。

 

小学校の頃、国語の教科書を音読するのが好きでした。本を読むのも好きでした。

「なんでみんな音読嫌そうにしてるんだろう」

とか本気で思ってました。地の文と台詞の部分と何も変えずに読んでるのが謎でした。

あるとき、ふと思い立って思い切り感情をこめて音読してみました。

先生に褒められました。

練習なんて一度もしていなかったのに、すごい練習してきたみたいに思われました。

「なるほど、これは私、得意なんだな」

と、思い……その流れだったかは覚えていないのですが、小学校のクラブ活動で演劇部に入ることになりました。

 

これがまた楽しい。

 

その頃からアイドルになるという夢が少し変わって、役者になりたいと思うようになりました。

というか、容姿的な面でアイドルは無理だと思い始めたのと、その頃のアイドルがさほど私好みでは無かったのが夢が変化した原因の一つな気がします。アイドルというよりは、一芸に秀でた人間というか、「何かを表現する人間」になりたいと思うようになっていました。

とはいえ、そこに突き進むことはなく、次の年は手芸部に入り(女の子らしくなろうと努力をしてみた・裁縫が非常に苦手だったので手芸部という形の所に入れば上手になるかもしれないと思って入ってみたのですが、どう頑張っても苦手のままでした。手先が器用じゃないというのもあるのですが、何かを縫ってても、編んでても、途中で飽きて雑になる→上手くできない→へたくそで凹む、みたいな流れでどう考えても合ってなかった。特に編み物はこの手芸部以降にもう一度挑戦することになるのですが、どうしても途中で飽きる……! 人形のマフラーサイズが限界!)やっぱり自分的には演劇部が良いと思い直し、6年生で再度演劇部に入りました。

演劇部でピーターパンをやることになりました。

何が一番自分に合っているだろう、と考えた結果、フック船長を希望しました。

先生にも止められましたが、物凄い低い声で台詞を読んだら認められました。

自分なりに考えて悩んでフック船長の気持ちになりながら演じたら、非常にウケたようで、小学年の子達とすれ違うと「フック船長だ!」と声をかけられるようになりました。

 

……間違えて公開しました。

凄く中途半端なんだけど一旦区切ります。続きかけるかな(あきてきた)

深夜のおはなし:なんかブログ書き始めたら脳みそ活性化されて眠れなくなったっぽいんですけど

いや、それ昼寝のせいです。

 

いやいや。それだけじゃない気がする。

ちなみに睡眠用のお薬はちゃんと飲みました。おふとんにも入りました。したらば、頭の中を色んな事がぐるぐる駆け巡って、最終的に目がさえました。

多分ですけども、書きたい事がたくさんあるんですよね。

アレも書きたい、コレも書きたい、そういやこういうこともあった、あの経験を書き綴ったらよいのではなかろうか。

そんないっぺんに書けないし、そもそも浮かんではまた違うものが浮かんでのぐるぐる状態になるから私の頭おちつけ、落ち着きなさい。

 

と、思ってまたブログを開いてみた。

 

書くかどうかは分からないけれど、とりあえず浮かんだ案件を一覧にしておこう。

・発想力と妄想力はあるけれど実行に移せない案件(アカン系完璧主義も絡んでるコレ)

・飽き性の検証:好きなものを書き連ねてみる (自己紹介的案件)

 →好きなもののサイクルパターン

  →音楽・ゲーム・お笑い・漫画やアニメ

   →腐

・物覚えの凹凸。聴覚優勢だったと思われる私の学生時代の成績(過去を振り返る案件)

・高校時代にバンドやってた話(楽器の練習が向いてなかった案件)

・高校卒業後にバンドを組もうとした話(スケジュール管理とか連絡とかが非常に苦手過ぎて駄目になった案件)

・思い立って大学受験。しかし我が家はまったくもって勉強に適さなかった案件。

・夢の遍歴。色々やりすぎて今現在夢を抱けない案件。

 →やりたいことがホントにないのか、いや実はある。だができない案件。

  →どうすれば出来るようになるのかを考える。

・母と私の相性の悪さ案件。しかし母のことは好きだし大事である。

ADHDを宣告されちゃったパターンの私が考える、ADHDの診断を受けるべきか否か

・「苦手なことも努力すればきっとできるようになる」の精神で苦手分野に飛び込んだ話。

・免許取りに行ったけど駄目になった話。

・パソコン習いに行ったけど駄目になった話。

・もう少し詳しく検証しよう。学生時代の成績やらなんやらの話。

 →例にもれず変わり者だった(多分今も)私のどこが変わっていたのか。

 

とりあえずこんな感じで。増えたら書き足します。

本日のおはなし:アカン系完璧主義から発生するアカン問題。

※アカン系完璧主義とは。

完璧主義が一周回って「どうせ完璧にできないならやらないほうがまし!」となってしまい何もできないというよろしくない状況を適当に表した言葉。

 

はい。

どうもアカン系完璧主義者のせーです。

今日はなんか別の事を書こうと思ってたんですが、アカン系完璧主義が頭の中ぐるぐるし始めてしまったのでそっちを先にひも解いてみようと思い立ちました。

常に思うのですが、このアカン系完璧主義とADHDの先延ばし癖って相性抜群過ぎて非常に厄介ですよね。いや、ほんとに。

 

・そもそも完璧主義者なのか?

わかりません。ただ、物凄くプライドが高く、理想が高い故に、自尊心とかその辺ボロボロになっている自覚はあります。プライド高いのに自尊心低いってなんやねんとか思いますが、理想が高い故に自分の至らなさやダメな部分が目について自分を卑下す形となり、結果として自尊心が育たず劣等感まみれの人間になったということだと思われます。

自分自身のことを完璧主義者とは長いこと思ってこなかったのですが(自分が完璧じゃないし)(その思考回路がすでに完璧主義傾向という矛盾)“常に100%の力を発揮しなければ気が済まない”とか“やるからには徹底的に”という己の理想を貫く傾向があるので、その辺が完璧主義傾向なのかなと思っています。

他人に対して「完璧であれ!」という事はまったくないです。

 

自分が設定した「完璧(理想)」に対して自分が「結果(現実)」に満足できるか否か。

 

それだけの問題なんですが

それが非常に厄介な大問題。

 

自分が基準になるので、他の人が「結果(現実)」を褒めても、自分が満足できてないと「結果(現実)」を良いものと思えない。

褒められても「いや私なんか全然!! こんなこと褒められることじゃないです」と本気で言いだすタイプ。

 

めんどくさいと思った方。

私もそう思う。自分でもそう思う。

これにも名前をつけたい。拗らせた完璧主義とか。拗らせ系完璧主義とか。

 

で。

 

そんな傾向を持っている自分が今日リアルに「自分めんどくせえ!」となったのが

 

自分の手掛けたものが非常に気に食わない。

でもやり直したりしっかり手をかけるのは今の自分には大変だし、そもそも重要なものではないから手を抜くことを憶える為にもこのままにしよう。

やっぱり気に食わないからその先の作業に手を付けられない。

 

このあたりで頭の中ぐるぐるになってきたので、作業中断して休憩することにしました。最近凄くよくあるパターンで、作業としては数十分で済むものが自分が納得できないという理由だけで数時間放置してしまう。

 

他にも。

 

・自分の格好に納得がいかないから外出たくない。(これに身支度の面倒くささが加わって先延ばしになった結果行うべきことが出来ないことが良くある)

・ちゃんと楽しめる、ストーリーとか理解できる時にやりたいから手を出せない(積みゲー問題)

 

とか。……具体的に考えたら案外少なかったのは、たぶん私が今ほぼ引き籠っているからだと思われます。

 

あと、個人的に大打撃なのが、

 

・いいお客さんでいられる自身がないからライブに行けない。(身支度の面倒くささ以下略と行くのは良いがかえってこれる自身がないという理由も足される)(ライブ行けない案件)

 

これは拗らせててTwitterとかで情報収集するのもしんどいことになってます。

 

ここまで書いてて、このブログを削除したくなってきているのもアカン系発生してますね。

今書いてる文章って題名と合ってるのか不安になってきました。

公開してたら頑張ったと思ってください。

 

解消するには自分が折れればいいだけの話なんですよ。

出来なくてもしゃーない。

納得できなくてもしゃーない。

でもそれが出来てれば苦労していないっていう話ですよね。

 

あと、調子が良いときにできてることが調子が悪い時にできない事も自分にとっては打撃になるので不のスパイラルが起こります。

 

はてさて。

話の終着点がわからなくなってきました。

 

まあ、どうしたらいいかという話ですよね。

どうしたらいいのかというのは、簡単な話ですよね。

 

諦めよう。

 

……んー! 納得いかない! でも公開ボタンとりあえず押すことにする。

押しなさい自分!

発達障害に寛容だったはずのきょうだい児的落とし穴(ADHD発覚編)

一つ前のブログにも書いた通り、

我が家は変わり者のあつまりでした。

身体的ハンデを背負ってもバリッバリ卓球やってる母と、登校拒否児童経験持ちで私が登校拒否に陥った時もけろっと「俺も行かなかった時期あるからなー」と暴露した父と(すんごい脱力した←)幼少期から明らかに一筋縄ではいかない子だった弟と。

特に弟の存在は大きかったですね。

ただ、自分もハンデ背負ってるけどポジティブに生きてきた過去があるからか、母の行動は早かった。親の会に入って情報交換や情報収集をしたり、療育にも積極的で、勉強もしてたし、普通の学校に通うにあたって学校にかけあったりもしていたし……。

そんな母に連れまわされたおかげで弟にしろ他の障害を持ってる子にしろ、いろんな子を見てきたわけです。それは良い経験だったと思います。

ただまあ、手のかかる弟を持った姉としては、しっかりおねえちゃんをしなくてはならないという思いもありましたし、母親にこれ以上負担をかけたくないという思いから、小学中学共に色々我慢もしてきました。

いわゆる、良い子であろうとしてたんだと思います。

 

勿論、ADHD傾向はまったくもって治らない忘れ物癖とか、物無くすとか、お道具箱ぐちゃぐちゃとか、一つのノートを使いきれない(該当授業のノートを忘れて違うノートに書いたり、最終的に教科書に書き込むことにしたり)未だによくわからない先生との交換日記的なものがまったくもって書けなかったり……コレはADHD関係あるのかわからないけれど、文章を書くのが非常に苦手だった。あと書くことがなかった。

 

でもまあ、その辺は些細な問題としてスルーされてきました。

そのスルーされた原因の一つが、母親も過去忘れ物が酷かったし大丈夫! みたいな母のポジティブシンキングの結果だったりもするわけですが。(笑)

 

また、そのころのADHDの印象というのが“多動”であるという事だったのも、見過ごされた原因だと思っています。

 

……めっちゃ授業集中して聞いてましたもん!←

 

復習が苦手で、飽きると教科書の違うページを読みだすとか絵を書きだすとかはありましたが、基本的に授業を面白いものと捉えていたためめちゃくちゃ積極的に授業を受ける子でした。

なので授業中お喋りもしないし、むしろお喋りがうるさいのが嫌で教卓の目の前の席を希望するような子でした。わからないことがあったら先生にすぐ聞けるし。(ただし背が高かったのであまり前には座れなかった)

それゆえ飽きてうろちょろすることもなかったし、めちゃくちゃいい子だったと思います。

新しい知識を得るのが私にとっては面白い事だったんでしょうね。

(ただし、漢字だけは壊滅的にダメでした。読めるけど書けない)

 

多動もないし、集中して授業を聴いてるから比較的成績も良く(耳で覚えるタイプでした)提出物に難ありでしたがプリント類は早く解きたい的な部分もあって休み時間にやっちゃうタイプだったので宿題もさほど苦労せず(漢字の書き取りを除く)(あとノートの提出を除く)

そりゃあ、ADHDだとは思わないよな……と今でも思います。

 

そんなこんなで成長してきて、高校卒業後から色々問題が起こり始めて「あれ? なんで?」となりはじめ、うつを繰り返したりしつつも色々試行錯誤しながら生きてきて。

 

片づけられない女たち、が話題に上がりADHDが広まったころも「いや確かに片づけられないけど、当てはまらないところも多いし」と自分がそうだとは全く思わず。

けれど弟や弟の友達、いろんな障害を抱えた子達を見てきた経験から、ADHDの大変さもわかった(つもり)になった上で、

 

発達障害っていうけど、それも一つの個性だよね。

 

と、常日頃そんな話になるたびに言っていました。

弟だって色々あるけど個性がメチャクチャ強いだけで悪い子じゃない。良い部分も沢山あるし、その良い部分を伸ばして生きて行けばいい。

その個性を認めてくれて、苦手な部分をフォローしてくれる社会になって欲しい。

そんな社会にならなくても、そういう個性の強い子達が居ることをわかっている自分は、出来るだけフォローをしてあげたい。

 

本気でそう考えていました。

 

そして、何度目かのうつ症状で病院に通って3年ぐらいたった頃。

ふと、主治医の先生から簡単なテストを受けてみて欲しいと言われ、用紙を見た瞬間。

 

え?

 

と、なりました。

良く知っているからこそ、そのテストが何を意味するのか、分かってしまった。

いや、そんなことないだろう。そんなことあるはずない。そう思いつつ用紙に記入して、単刀直入に主治医の先生に「ADHDなんですか?」と単刀直入に聞きました。

大分その時点でパニックにもなってました。

 

いや、だって。

傾向はたしかにあるけど、違う部分も沢山あるし……!

 

その時、私の心の中から噴出したのは

 

発達障害だなんて困る!

弟は確かに問題があった、だから私は色々我慢してきた。

でも私にも問題があったの!?

ならなんで母は気付かなかったの!?

沢山勉強してたじゃん!

 

という感情。

 

フォローする側

と認識していた自分の立ち位置が

フォローが必要な側

に反転する。

 

自分の生きてきた道がひっくり返った感覚。

 

その後、直ぐに心理士の先生に聞き取り検査を受け、主治医の先生は「ADHDの治療をしたほうがいい」ときっぱり言いました。

 

号泣。

 

色んな感情が頭の中巡りに巡って、このまま帰路のつくのは危険だと判断し、ネットカフェに飛び込みました。

速攻ADHDについて再度調べようと検索。……したら割と当てはまるんですよね。

いや、でも……と受け止めきれない自分に追い打ちのような感情が吹きだします。

 

人には発達障害は個性だとか言っておいて、自分がいざそうだと診断されたら受け入れられない矛盾。

分かってるような顔をしながら、実際は障害を持った人たちを見下していたのか? という感情。

 

その日は泣きに泣き、夜が明けて家に帰って親に話をした時も泣き、かなり長い期間診断に疑いをもち、最終的に違う病院で再診断を受ける形となりました。

 

母親にもめちゃくちゃきつくあたりました。

受け入れられない事情の一つに、私は弟をサポートする側だから、とか、自分は一人で考えて自分の道を切り開いていかなきゃ、とか、自分視点でめちゃくちゃ頑張ってきたのが「私もサポート必要だったの!? 今までの必死な頑張りは何だったの!?」という部分が大きかったので、その分”弟を優先してきた”ように見えた母にあたってしまったんですよね。

(最終的に、母もADHDだったから私のことを普通だと思ってたんだ、見過ごしたんだと考えるようにして、そのあたりは落ち着きました)

 

違う病院(今通ってる所)でもADHDと診断されたのと、ADHDと診断されたことでずっと昔から感じていた違和感や、うつ状態の時の「うつだけじゃなくて、なんか他に問題がある気がする。そこを解決しないかぎり治らない気がする」という感覚が晴れたのでそういう点も含めて今はだいぶ受け入れていますが、未だに誤診の可能性も疑ってます。3年ぐらいたつのに。……ほら、愛着障害とかと区別つきにくいって言うじゃないですか……。いや、たぶんADHDで合ってるんだと思うんですけど。

 

理解してると思ってても……いや、理解してるつもりだからこそ、衝撃が大きかった。

そんな私のADHD発覚のお話でした。

それを未だに拗らせてる感があるのは、まあ、また別の機会に。

 

人にはそれも個性だよ! って言えるのに、自分には言えないのはなんでなんだろなー……(ほんとに)