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私もか、発達障害。(ADHD)

母:身体障碍者 弟:知的グレーゾーン 父:いまのところ何もなし 私:三十路超えてADHD発覚。二次障害のうつと咀嚼しきれないADHDという言葉に翻弄されながらなんとか生きてる人間のつれづれなるままに。

発達障害に寛容だったはずのきょうだい児的落とし穴(ADHD発覚編)

一つ前のブログにも書いた通り、

我が家は変わり者のあつまりでした。

身体的ハンデを背負ってもバリッバリ卓球やってる母と、登校拒否児童経験持ちで私が登校拒否に陥った時もけろっと「俺も行かなかった時期あるからなー」と暴露した父と(すんごい脱力した←)幼少期から明らかに一筋縄ではいかない子だった弟と。

特に弟の存在は大きかったですね。

ただ、自分もハンデ背負ってるけどポジティブに生きてきた過去があるからか、母の行動は早かった。親の会に入って情報交換や情報収集をしたり、療育にも積極的で、勉強もしてたし、普通の学校に通うにあたって学校にかけあったりもしていたし……。

そんな母に連れまわされたおかげで弟にしろ他の障害を持ってる子にしろ、いろんな子を見てきたわけです。それは良い経験だったと思います。

ただまあ、手のかかる弟を持った姉としては、しっかりおねえちゃんをしなくてはならないという思いもありましたし、母親にこれ以上負担をかけたくないという思いから、小学中学共に色々我慢もしてきました。

いわゆる、良い子であろうとしてたんだと思います。

 

勿論、ADHD傾向はまったくもって治らない忘れ物癖とか、物無くすとか、お道具箱ぐちゃぐちゃとか、一つのノートを使いきれない(該当授業のノートを忘れて違うノートに書いたり、最終的に教科書に書き込むことにしたり)未だによくわからない先生との交換日記的なものがまったくもって書けなかったり……コレはADHD関係あるのかわからないけれど、文章を書くのが非常に苦手だった。あと書くことがなかった。

 

でもまあ、その辺は些細な問題としてスルーされてきました。

そのスルーされた原因の一つが、母親も過去忘れ物が酷かったし大丈夫! みたいな母のポジティブシンキングの結果だったりもするわけですが。(笑)

 

また、そのころのADHDの印象というのが“多動”であるという事だったのも、見過ごされた原因だと思っています。

 

……めっちゃ授業集中して聞いてましたもん!←

 

復習が苦手で、飽きると教科書の違うページを読みだすとか絵を書きだすとかはありましたが、基本的に授業を面白いものと捉えていたためめちゃくちゃ積極的に授業を受ける子でした。

なので授業中お喋りもしないし、むしろお喋りがうるさいのが嫌で教卓の目の前の席を希望するような子でした。わからないことがあったら先生にすぐ聞けるし。(ただし背が高かったのであまり前には座れなかった)

それゆえ飽きてうろちょろすることもなかったし、めちゃくちゃいい子だったと思います。

新しい知識を得るのが私にとっては面白い事だったんでしょうね。

(ただし、漢字だけは壊滅的にダメでした。読めるけど書けない)

 

多動もないし、集中して授業を聴いてるから比較的成績も良く(耳で覚えるタイプでした)提出物に難ありでしたがプリント類は早く解きたい的な部分もあって休み時間にやっちゃうタイプだったので宿題もさほど苦労せず(漢字の書き取りを除く)(あとノートの提出を除く)

そりゃあ、ADHDだとは思わないよな……と今でも思います。

 

そんなこんなで成長してきて、高校卒業後から色々問題が起こり始めて「あれ? なんで?」となりはじめ、うつを繰り返したりしつつも色々試行錯誤しながら生きてきて。

 

片づけられない女たち、が話題に上がりADHDが広まったころも「いや確かに片づけられないけど、当てはまらないところも多いし」と自分がそうだとは全く思わず。

けれど弟や弟の友達、いろんな障害を抱えた子達を見てきた経験から、ADHDの大変さもわかった(つもり)になった上で、

 

発達障害っていうけど、それも一つの個性だよね。

 

と、常日頃そんな話になるたびに言っていました。

弟だって色々あるけど個性がメチャクチャ強いだけで悪い子じゃない。良い部分も沢山あるし、その良い部分を伸ばして生きて行けばいい。

その個性を認めてくれて、苦手な部分をフォローしてくれる社会になって欲しい。

そんな社会にならなくても、そういう個性の強い子達が居ることをわかっている自分は、出来るだけフォローをしてあげたい。

 

本気でそう考えていました。

 

そして、何度目かのうつ症状で病院に通って3年ぐらいたった頃。

ふと、主治医の先生から簡単なテストを受けてみて欲しいと言われ、用紙を見た瞬間。

 

え?

 

と、なりました。

良く知っているからこそ、そのテストが何を意味するのか、分かってしまった。

いや、そんなことないだろう。そんなことあるはずない。そう思いつつ用紙に記入して、単刀直入に主治医の先生に「ADHDなんですか?」と単刀直入に聞きました。

大分その時点でパニックにもなってました。

 

いや、だって。

傾向はたしかにあるけど、違う部分も沢山あるし……!

 

その時、私の心の中から噴出したのは

 

発達障害だなんて困る!

弟は確かに問題があった、だから私は色々我慢してきた。

でも私にも問題があったの!?

ならなんで母は気付かなかったの!?

沢山勉強してたじゃん!

 

という感情。

 

フォローする側

と認識していた自分の立ち位置が

フォローが必要な側

に反転する。

 

自分の生きてきた道がひっくり返った感覚。

 

その後、直ぐに心理士の先生に聞き取り検査を受け、主治医の先生は「ADHDの治療をしたほうがいい」ときっぱり言いました。

 

号泣。

 

色んな感情が頭の中巡りに巡って、このまま帰路のつくのは危険だと判断し、ネットカフェに飛び込みました。

速攻ADHDについて再度調べようと検索。……したら割と当てはまるんですよね。

いや、でも……と受け止めきれない自分に追い打ちのような感情が吹きだします。

 

人には発達障害は個性だとか言っておいて、自分がいざそうだと診断されたら受け入れられない矛盾。

分かってるような顔をしながら、実際は障害を持った人たちを見下していたのか? という感情。

 

その日は泣きに泣き、夜が明けて家に帰って親に話をした時も泣き、かなり長い期間診断に疑いをもち、最終的に違う病院で再診断を受ける形となりました。

 

母親にもめちゃくちゃきつくあたりました。

受け入れられない事情の一つに、私は弟をサポートする側だから、とか、自分は一人で考えて自分の道を切り開いていかなきゃ、とか、自分視点でめちゃくちゃ頑張ってきたのが「私もサポート必要だったの!? 今までの必死な頑張りは何だったの!?」という部分が大きかったので、その分”弟を優先してきた”ように見えた母にあたってしまったんですよね。

(最終的に、母もADHDだったから私のことを普通だと思ってたんだ、見過ごしたんだと考えるようにして、そのあたりは落ち着きました)

 

違う病院(今通ってる所)でもADHDと診断されたのと、ADHDと診断されたことでずっと昔から感じていた違和感や、うつ状態の時の「うつだけじゃなくて、なんか他に問題がある気がする。そこを解決しないかぎり治らない気がする」という感覚が晴れたのでそういう点も含めて今はだいぶ受け入れていますが、未だに誤診の可能性も疑ってます。3年ぐらいたつのに。……ほら、愛着障害とかと区別つきにくいって言うじゃないですか……。いや、たぶんADHDで合ってるんだと思うんですけど。

 

理解してると思ってても……いや、理解してるつもりだからこそ、衝撃が大きかった。

そんな私のADHD発覚のお話でした。

それを未だに拗らせてる感があるのは、まあ、また別の機会に。

 

人にはそれも個性だよ! って言えるのに、自分には言えないのはなんでなんだろなー……(ほんとに)